小学部だより

小学部だより 2025年5月号
小学部だより
〜あなたがたに平和があるように〜
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書 20 章 29 節)
4 月、新しい一年生を迎える喜びの季節でした。教会の暦ではイエス・キリストの十字架と復活という最も重要な復活祭(イースター)の季節でもありますので、復活の前にはどうしても十字架の惨めな死について触れなければなりません。ゲッセマネで捕えられ、夜中に引き回されて、鞭打たれ、エルサレムの町の石畳の道(ヴィア・ドロローサ)を、重い十字架を担がされゴルゴタの丘(刑場)まで歩かされたイエス。聴衆からの罵声や嘲りの言葉、唾を吐かれ、物を投げられ、それでも自ら十字架へと向かうイエス。
ここを真正面から取り扱うと、もしかしたら一年生は怖くなってしまって礼拝が嫌になるかも知れません。
ですから、十字架の死については、さらっと済ませてしまうのが多くのキリスト教主義の小学校の春ではないでしょうか。想像することが難しい壮絶な十字架への道のり。最後の晩餐の席上でイエスご自身が、捕えられ
十字架の死を予告した時、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ 13:38)と勇ましく宣言しました。しかしペトロは結果的には捕えられたイエスを救い出すどころか、赤の他人であると言って逃げ出してしまいます。裏切り者はイスカリオテのユダだけでなく、その他 11 人の弟子たちも全て同罪ではなかったかと...。
復活したイエスは、エルサレムの 2 階部屋で恐怖に怯えて潜伏生活を送る弟子たちの中に立ち、『シャローム(あなたがたに平和があるように)』と語りかけました。最後の大事な場面で裏切り、逃げ出してしまった弟子たちにとって、復活のイエスに出会い、『シャローム』という平和の挨拶をいただいたことは、どれだけ大きな救いだったことでしょう。12 使徒の一人で、ディディモと呼ばれるトマスは、他の弟子たちが復活のイエスに出会った時、不幸にもその場にいませんでした。トマスもまたペトロと同じようにイエスが捕えられたならば、「自分も一緒に戦って死のうではないか」と熱い信仰を語った弟子の一人でした。仲間たちがイエスの復活の事実について熱弁する中、「自分はどうしても信じられない。」と、強い疑念を口にします。そんな中に再びイエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」そして、疑念に縛られていたトマスに自分の傷口を見せ、その指を差し入れて確かめてごらんと諭します。ようやくトマスは「わたしの主、わたしの神よ。」とイエスを神の子であると認めるに至ります。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ 20:29)このように、赦された弟子たちの姿は、臆病で疑り深く、神の言葉を聴きながらも自分の都合が優先してしまい、従いきれない私たちの姿と重なります。私たちは小さく弱い存在ですが、復活のイエスに赦されていると感じることのできる聖句の一つです。
赦された弟子たちは、その後、ペンテコステで聖霊に満たされ、世界中に福音を宣べ伝えていきました。マルコによる福音書の最後には『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』というイエスの言葉が記されています。新緑の 5 月、子どもたちが学ぶ「東洋英和」が、このみ言葉によって建てられた学び舎であることをあらためて覚えたいと思います。
小学部長 𠮷田太郎
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入学式

木曜体操

6年生と1年生

1年生 初めての給食

交通安全教室